人の目が気になって疲れてしまう原因。自然体で生きる為の方法

自分の思うままに生きてみたい

 

他人の目を気にして日々生きている人の本心ではないでしょうか。他人から悪く思われたくなくて、良い人だと思われたくて、心身ともに疲弊する毎日ではありませんか?

 

自分はこういう人だ、ということを他者基準にしてしまうと、本当の自分がなくなってしまいます。

 

本来なら、自分がどうしたい、どうありたいかが大切なはず。なのに、他人からどう見られるかを物事の判断基準にしてしまうと、自分の気持ちを大切にすることが出来ず、生きていくことに疲れてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

こういった、他人の目が異常に気になるコンプレックスをアザーコンプレックスとも言いますね。他者の目を気にせずに、自分の本当の気持ちをないがしろにすることなく、生きていく方法を考えていきましょう。

 

他人の目が気になって疲れてしまうのはどうして?

他人の視線を気にする原因は、自信のなさ

他人からどう見られているか、他人に物事の判断基準を委ねてしまうのは、自分のことを認めていないからではないでしょうか。自分に自信を持っていれば、他人の目など気にする必要もなく、自分の信念に従って行動できるものです。

 

出来ないことを隠そうとすると泥沼

保育士とて働き始めた頃、私自身、苦い経験があります。私は社会人経験をして、出産もしてから、独学で保育士資格を取りました。そのため、年齢は重ねていても保育士経験としては、若い保育士よりも浅い場合もあります。

 

同い年のA先生は主任保育士でした。保育系の学校を出て、保育士一筋のベテランです。子どもたちの注目を集めることも上手で、参考になることがたくさんある先生でした。その反面、他の保育士たち、全員の悪口を言っていました。とにかく、人の悪い面ばかり目に付く人なんだなあと感じていました。

 

当然、私のこと悪口も言っていたに違いありません。「そういう人だから」と気にしなければ良かったのですが、保育士としての経験の浅さ、自信のなさが自分を苦しめました。

 

保育内容に関しても、子どものためというよりも、無意識にA先生の気に入りそうなものを取り入れてしまいました。また、本来なら子どもひとりひとりの気持ちにしっかり寄り添う保育をしたいという志を持っていたにも関わらず、「集団なんだから、集団を乱さないで」という方針のA先生の機嫌を損ねないように、嫌がる子やぐずる子の話をゆっくり聞くこともなく、「早く」「きちんと」というような言葉をたくさん使っていました。

 

今、自分がどういう動きをすれば、A先生は満足するか。そのことに重点を置いて保育をしていた私は、息苦しくてたまりませんでした。そして、そのことに自分で気づいた時、自分の情けなさに愕然としました。と同時に、どうしてあんなに仕事が辛かったのかもはっきりと理解しました。

 

あの頃の保育士の自分のことを思い出すと、苦々しく感じます。

 

出産したことによって、子どもに対する思いや自分の信念が沸いて、保育士になったのです。その信念を大切に、判断を他者に委ねずに保育をすればよかったのです。もちろん、他人の意見を聞かないということではなく。

 

自分の弱点をさらけ出す

私は、あの保育園でどうすればのびのびと仕事が出来たのでしょうか。自分の年齢と、保育士キャリアのアンバランスを克服しなければ、とプライドもあって頑張ってしまっていた私。

 

今になって思うのは、変な方向に頑張ってしまっていたな、と。

 

自分はこれ苦手だから、あまり知らないから、下手だから、教えてね、助けてね。肩の力を抜いて、自分の弱さを認めて、周囲にも隠そうとせずに、さらけ出しておけば良かったのだと思います。

 

みんな、特にA先生から「そんなことも出来ない」と思われる自分が許せなかったのです。キャリアが浅いことは事実で変えようがない。だから、出来ないことが多いのを恥ずかしく思わずに、これから頑張って出来るようになるね、というような自然体でいられれば

 

初心を忘れずに、子どもたちの方を向いた保育ができたのだろうと思います。

 

自分がどうありたいか、どうしたいかが大切

「他人基準」でいると、どうなる?

他人からよく思われたいがために、相手からどう思われるかを気にして他人基準で物事をしようとしていると、疲弊してしまいますよね。しかも、その「他人基準」だって、他人によって全然違います。

 

同じ人物に対しても、

「あの人、ノリが良くて楽しくていいね」

「あの人、いちいち騒がしくて疲れる」

と、受け取る側によって真逆の評価に分かれることもあります。

 

同じ行為に対しても、

「周囲に目配りをして、仕事の遅い人にはフォローしてあげて優しい」

「納得するまでじっくり取り組ませてあげればいいのに。おせっかいで有難迷惑」

と、捉え方も全く違うことだってよくあります。

 

そんなあやふやな「他人基準」を気にしすぎて疲れてしまうなんて、なんだか馬鹿馬鹿しくはないでしょうか?

 

「自分基準」が大切

「こんなことすると、相手はどう思うかな」と、心を疲れさせながら相手基準で行動したところで、相手が満足するとも限りません。その上、当然自分自身の感情は無視しているのでストレスだって溜まります。

 

その上、相手によって言動を変えていることも周囲は分かっているかも知れません。そうなると、「自分の意見を持たない人」「誰にでもいい顔をしようとする信用出来ない人」というレッテルを貼られてしまう危険だってあるのです。

 

自分がどうしたいか、自分基準で行動すると、ブレない信用できる人とみなされるのです。振る舞いも自然体に見えるので、周囲の人に魅力的にさえ映るのです。

 

当然ながら、「自分基準」と「自分勝手」とは全く違うものであるということは言うまでもありません。他人の顔色を窺わない方が、他人から信用されたり好かれたり、皮肉にも感じますが

 

実際に、周囲の人たちを見てどうでしょう?「自分基準」の人の方が信用されているのではないでしょうか。

 

誰からも好かれるなんて不可能

長所と短所は表裏一体

他人から好かれたい、良く思われたいあまりに、「他者基準」の言動になってしまっているあなた。もっと自分のことを認めてあげませんか。

 

人間なら誰しも、長所もあれば短所もあります。また、その長所も見方によっては短所にもなり、その逆も然りです。そして、完璧な人間なんてこの世にはいません。

 

自分の「人見知り」の部分をコンプレックスに思っていても、ある人からすれば、それは「慎み深い」とポジティブに受け止められることだってあるのです。自分の評価を他者に委ねることは無意味だと思いませんか?

 

全員から好かれる人なんて無理

他人から嫌われないために、良く思われるために、顔色を窺ってばかりで生き辛さを感じているあなた。誰だって、嫌われるより好かれる方が嬉しいですよね。

 

でも、どんなに顔色を窺おうが、誰からも好かれるなんて、不可能なのです。長所と短所が表裏一体であるように、同じ物事に対しても、見方が変われば評価も変わるのです。

 

子どもたちに大人気のキャラクターだって、興味を示さない子もいるし、どこがいいのか分からない、という大人も大勢います。

 

人気芸能人ベスト10に入っている人が、嫌いな芸能人ワースト10に入っていることもよくあります。

 

人の数だけ、見方や受け取り方が違うということです。全員から好かれて、高評価を得るなんて無理な話だと思いませんか?あなたがどれだけ良い人になってみんなに好かれたい、と頑張っても、誰からもなんて不可能だと言えるでしょう。

 

それなら、自分らしく、自分がどうしたいかを基準にした方がいいですよね。その上で、自分のことを理解して受け止めてくれる人がいれば、それでいいのでは?

 

結局、自然体でいるのが一番

自分の常識、他人には非常識かも!?

他人の目が気になって仕方がない人は、「常識的に考えると」ということを前提に行動する傾向があります。でも、「常識」は全人類共通ではありませんよね。

 

もちろん、他人の物を盗んではいけない・人を傷つけてはいけない、などという倫理に関する「常識」は当然誰にも共通するものです。でも、自分が絶対的な常識だと思っていたことが、他者からの非常識であると痛感したこともありました。用意されたご馳走に対して、

「せっかく用意してくださったお料理をきれいに食べることが常識」

という教育を受けていたし、それが当然だと思っていました。

 

ところが、

「食べきれないほどの料理を用意してくれた、と言う意味を込めて食べ残すことが常識」

という考え方の人と出会って驚きました。

 

人間の数だけの常識と考え方があるのです。常識なんて、曖昧なことなのかも知れません。「常識のある人だと思われたい」と、他人の目を気にしながら行動することが良いことなのか、考えさせられますね。「常識的に考えて」を基準にするのではなく、「自分はこうしたい、こう思う」と、自分基準を徹底できればいいですね。

 

他人から認めてもらおうと躍起にならない

他人から認めてもらうためには、一目置かれるためには、完璧な人間であるべきだと思ってはいませんか。そして自分は完璧ではないからと、生き辛く感じているのかも知れません。

 

そもそも、完璧な人間など存在しませんし、完璧に近いほどの人物でなくとも、生き辛さを感じることなく幸せに生きることが出来るはずです。また、完璧に近いような人間が他人から認められて好かれるとは限りません。

 

他人から認められたい、よく思われたい、というよりも、自分で自分のことを認めてあげられるような納得できる生き方が出来るといいですね。

 

自分が思っているほど他人は見ていない

「他者基準」は無意味、「自分基準」を大切に、誰からも好かれるなんて無理。など、色々言ってきましたが、どうしても他人の目が気になって仕方ない人もいます。

 

そんな人は、究極のセリフを心に留めておいてください。

 

「自分が思うほど他人は見ていない」ということ。

 

他者からの視線が気になって身動きが取れなくなっている人、みんなあなたのことばかり見ているほど暇でもなければあなたに興味があるわけでもないのです。このことを心に留めて、自分の心のままに、自然体で行動してくださいね。

 

自分の心に正直に、自分の考えを貫いている人は、一本筋が通っていて、カッコいいものです。相手によってころころ言動が変わることもないので、信頼もされます。

 

他人に過剰な気遣いをしたところで、息苦しく思われることもあります。認められようと躍起になっても簡単に認めてもらえるものでもありません。

 

良かれと思ってした言動が、受け取り手次第では悪印象を抱かれることだってあるのです。どんなに頑張っても、誰からも好かれるなんて不可能なのです。ならば、他人の目など気にすることをやめて、自分の感情を素直に出してみませんか。

 

自然体な人には、多くのファンがいるものですよ。

 

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