人が生きていく上では、あらゆる場面で人間関係が発生します。家庭、学校や職場、近所、子どもを持つ親であれば、子ども絡みのコミュニティ…。ほとんどの人は、多かれ少なかれ、人間関係の中で生きています。自分が選択できるものばかりではありません。
ところが、現実の生活の中では誰とも関わることがなく、ネット上にだけ人間関係を持っている人もいます。普通に現実の世界に暮らしている人間には、なかなか理解できないものではありますが…。これらの人々の思考は、どういったものなのでしょうか?
本当にネット上にしか人間関係がない
ネット上にしか人間関係を持たないなんてこと、あり得るのか?と疑問に思う人もいることと思います。家族がいたり、学校に通っていたり、仕事をもっていたりすれば、好むか好まないかに関わらず、そのコミュニティの中で人間関係が発生するはずです。
でも、学校に通っていなかったら?無職だったら?近所付き合いもなかったら?その上ひとり暮らしで、ひとりの友達もいなかったら…。こういう場合は、現実の生活、いわゆるリアル上では本当に人間関係が発生しているようには思えません。現実の生活で人間関係を持たない可能性もあり得るのです。
現実に、人と接することが全くない生活を送っている人は、人付き合いを避けているのでしょうか。それとも、関わりたいものの、うまく人間関係を結べなくて、避けるようになってしまったのでしょうか。
その結果、ネットに逃避してしまったのでしょうか。では、インターネット上でしか付き合い、人間関係が無い人の心理も含めてお話しをしていきます。
ネット上の人間関係があれば、寂しくないのか?
過去のコミュニティではどうしていたのか?
現在、ネット上でのみ人間関係を持っている人でも、過去には現実の生活を送るうえで、何かしらのコミュニティを持っていたはずです。生まれてすぐに、まず出会うコミュニティは家族であり、その後、学校や職場、とその年齢が上がるにしたがい、他の同い年の人たちとほぼ変わりのないコミュニティに出会ってそこで過ごしています。
親が常識から甚だしく逸脱した人間で、それらを何も知ることが出来ないまま年齢だけが上がっていったという人も、ごく稀に存在するのですが…。
彼らは、それらの各コミュニティの中にいる時から、人と関係を結ぶことが苦手だったのでしょうか。そうであれば、それは常に寂しいものではなかったのでしょうか。実際に、ネット上にしか人間関係を持っていない人としては、どうなのでしょうか?
もちろん、とても寂しい
現実の生活において、友達がいないことは、もちろん、とても寂しい。だからと言って、誰かと一緒にいれば寂しくないのかと問われると、それも違う。むしろ一人でいる以上に寂しさを感じてしまうのです。そして自身は「コミュ障」と自覚をしている方も多いです。
人と適切な人間関係を結べない、人に対してどう接したら良いか分からず、誰かといると疲弊してしまう。相手から変に見られているように思えて、自分が情けなく思えて、余計に寂しい気持ちになってしまうのです。人との距離の取り方や接し方が分からない場合、実際に「コミュニケーション障害」の可能性もあります。
「コミュニケーション障害」とは
医学的な診断名として「コミュニケーション障害」というものがあり、いくつかの種類があって疾患に分類されます。それよりも、一般的によく使われるのは、俗称としての「コミュニケーション障害」、略して「コミュ障」です。これは、人間関係をうまく結べない人のことを指します。疾患かどうかは別として、次のような人が当てはまります。
- 空気が読めない
- 人と話すことが苦手
- 人の目を見て話せない
- 人と意思疎通を図ることが苦手
- 人の気持ち理解することが苦手
- 一方的に延々と話し続けたり、その場にそぐわない発言をする
- ほんの些細なことであっても、気に障ることを言われると激怒する
「コミュ障」とは「コミュニケーション障害」の略語で、ネット上で生まれたネットスラングで、独特のニュアンスを含んで使われているようです。なんとなく、コミュニケーション下手を揶揄しているような感じにも受け取れてしまいます。でも実は本当に、背景には発達障害や不安障害、パーソナリティ障害など、精神疾患が隠れている可能性も少なからずあるのです。
コミュニケーション下手のあまり、うまく人付き合いが出来ず、自信を失って、不登校や引きこもりにつながってしまう危険性もあります。こうして現実世界のコミュニティから逃避して、ネット上でのみ、人とのつながりを持つという人が増えています。
ネット上には人間関係があっても、浅い関係にほかならない
不登校や引きこもりから、ネット上でしか人とつながらなくなってしまったという人でも、そのつながっている相手とは深い人付き合いをすることが可能なのでしょうか。
育てた人間関係ではない
ネット上において、自分の考えや気持ちを語ったり、人とコミュニケーションを取ることも良いとは思います。自分の本心を語ったことによって、気の合う仲間が出来ることもあるでしょう。
でもそれは、実際に相手と出会って、何となく好印象を持って、近付きたい、もっと話したい、仲良くなりたい、とドキドキしながら得た仲間ではないですよね。実際に同じ時間と空間を共有した中で話をして、お互いの存在を肌で感じて、分かりあえた時の喜びもないのです。
ネットでの人間関係は、リアルでの人間関係の代わりになるものでは決してないのです。リアルよりも、いとも簡単に関係を切ることも出来ます。
匿名性の怖さ
また、ネットならではの問題もあります。匿名性です。匿名を良いことに、酷い言葉を平気で人に投げつけたりしますよね。人が真剣に悩んでいることに対して、嘲笑を浴びせたり、罵倒したり。読んでいて気持ちが悪くなってしまうような発言も少なくはありません。
これは現実生活よりも酷いのではないでしょうか。現実生活では、本心はさておき、悩んでいる人に対して罵詈雑言を浴びせるような人間は、ほとんどゼロに等しいのではないでしょうか。
現実の生活上では、絶対に口にしないようなことをネット上では平気で言い放つ人たちがいるのです。その人たちは、自分の現実のコミュニティでは暴言など吐かずに大人しく暮らしていたりするのです。
ネットでもリアルでも、酷い言葉を口にするような輩がいて、リアルでは良い人がネットで暴れているのであれば、リアルでの人間関係の方が優しくて、関係を築きやすいのではないのでしょうか。それなのになぜ、現実の人間関係をシャットアウトして、ネットでのみ人間関係を持とうとするのでしょうか。
人間関係がネット限定という人の背景
現実の生活の人間関係以上に、傷つけられることが多いかも知れないネットでの人間関係。それなのに、現実から逃避して、ネットでのみ人付き合いをしているとみられる人の心理、その背景にはどういうものがあるのでしょう。
得られなかった自己肯定感
人が生まれて、育っていく過程の中で、身に着けていくものがあります。言語や運動能力、知能といったものはもちろんですが、それらを育むためにも必要となる、最も重要なもの。それは「自己肯定感」です。自分は大切な存在なのだ、自分は愛されているんだ、という自分を認めて自信を持ち、大切に思う感情です。
この自己肯定感が最も大切です、といったところで、それなら早速身に着けよう!と頑張っても、一朝一夕に身に着けられるものではないのです。
幼少期から、親から「あなたは大切な存在だ」と、自分の存在を無条件に認めて受け入れられてきた人は、自己肯定感がしっかり育まれています。一方、「おまえなんていらない」「何をしてもダメね」「あんたのこと嫌い」「死ね」なんて、酷い暴言を親から浴びせられたり、無視されたり、けなされてばかりで何をしても褒められることも認めらえることもなかった人は、残念ながら自己肯定感が育っていないのです。
「自分はダメな人間、必要のない人間だ」という気持ちが刷り込まれ、自分の中にしっかりと根を張ってしまっているのです。
強い自己否定感
親から愛情を得られずに、逆に酷い仕打ちを受けて育った人は、強烈な自己否定感を植え付けられています。「自分なんて…」と、卑下する気持ちが強すぎて、人に対しておどおどした態度を取ったり、嫌なことをされても黙っていたり、対等に接することが出来ないのです。
当然、人との付き合いでも神経をすり減らすことになり、心を開くことが出来ません。人間関係が嫌になり、結果として引きこもってしまうことにもなり得るのです。
だからと言って、それはネット上でも同じなのでは?と疑問に思うかもしれませんが、そこは別な場合も多いです。会ったこともない人、自分のことをよく知らない人とは話せるのです。目を見て話す必要もありません。「この人、喋り方変」とか思われる危険もありません。
twitterのフォロワーになってくれる人がいて、その人たちから優しい言葉をかけてもらうこともある。「友達ですよ」「あなたには私たちがいますよ」とかですね。それでも、自己否定感があまりにも強すぎて、自分のことが信じられない。自分のことが信じられないから、そんな自分に優しくしてくれる人のことも信じられない。ネット上で人間関係を築いたところで、寂しさや虚しさが消えることはないのです。
どこか醒めた目を持って、ネット上でのこの関係が、現実に友達がいない寂しさを埋めてくれるものでは決してないということも、承知の上なのです。
まとめ
ネット上にしか人間関係を持たない人の思考、なんて書いてきましたが、これも杓子定規に一括りには出来ないようです。
必ずしも、こうだと決めつける事は出来ませんが、ネット上のみの付き合い、人間関係を持っている人の心理としては、こういった方も多くいるのは事実です。
これらの人たちの一般的な考えはこうだ、とは一概には言えず、人それぞれの背景もあってのようです。
根底にあるのは自身のなさ
ネットを通じて意気投合して、もう本当に友達になった気分の人もいれば、結局リアルではないから、と醒めている人もいます。「友達って、そんなものではないんだろうな」と、どこか空しく感じてしまう人は、ネットだけの関係で満足しているわけではないのでしょう。
心の奥底では、現実の生活で、人間関係を良好に築けるようになって友達を作りたいと思っているのでしょう。でも、自信がない。人の視線が怖く感じてしまう。
コミュ障でも、ネット上では多くの人と良好な人間関係を結んでいます。でも、それが現実生活において人との付き合いが全くないことの埋め合わせには決してならないのです。ネット上で優しくしてくれる相手だから、リアルでも良い関係が結べるなんて全く思ってもいない。だから会おうとも思わない。優しいひとたち、ありがたい人たち、と本心から思っていても、現実とは別物なのです。
ネットのしか付き合いが無い人でも、フォロワーが大勢いる方もいます。そして、フォローしてくれると嬉しいものの、現実生活に人間関係がないことの寂しさを埋めるものではない。家族もなければ友達も恋人も同僚もない、ということの代替物になるはずがないのです。
また、寂しいだの孤独だの、友達が欲しいだのと言ったところで、単に自分の思いを淡々とツイートしているだけであり、寂しさや孤独感を誰かに埋めてもらおう、実際に友達になってもらおう、と思っているわけでもないんですね。
そもそも、ネット上での関係=リアルでの関係、と結べるくらいに人間関係を安易に能天気に考えられる人間であれば、リアルで人間関係が一切なくなるようなことにはなっていなかったはずなんですね。